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漢文1 舜孝子説話をめぐって

−本邦残存二種孝子伝を中心に−

     

『史料と研究』第26号(平成9年6月)に発表したのを、転載したものです(もと縦書き)。 発行部数がそれほど多くない雑誌だったもので、ネット上に公開してみました。

追記 本稿発表後に、黒田 彰氏「重花外伝−注好選と孝子伝−」(『説林』46 平10.3)が出され、
   その後『孝子伝の研究』(思文閣出版 平13.9)に収められています。同書の付記には、
        提出時、細田季男氏「舜孝子説話をめぐって−本邦残存二種古孝子伝を中心に−」(
       『史料と研究』26、平成9年6月)に接した。成安注も含め重華譚を広く分析した労作で、
       併せて参照されたい。近時の、坪井直子「舜子変文と『二十四孝』−「二十四孝」の誕
       生−」(『佛教大学大学院紀要』29、平成13年3月)は、二十四孝系の重華譚を扱う。
   と記されています。 2001.11.28

漢文2 科目「古典」長恨歌の比較文学的取り扱い


 【凡例】 ■にはすべて(アイ 1-365B)、▲には(ギン 1-3856)が入る。

           は じ め に


  本論は五帝の一人としてよく知られる舜の孝子説話を、我が国に残存する二種の古孝子
伝を中心とし、その他の文献と比較しながらそれぞれの特徴を見ていこうとするものであ
る。比較考証のために利用した文献は、以下の通りである。
  1 陽明文庫蔵孝子伝(以下、陽明本)紙焼
  2 船橋清賢氏旧蔵現京都大学付属図書館蔵孝子伝(以下、船橋本)昭三十四年同図書
  館開設六十周年記念出版
  3 漢劉向孝子伝 玉函山房輯佚書続編(法苑珠林四十九)
  4 陶潜孝伝   増訂漢魏叢書
 5  敦煌本孝子伝甲(P2621を底本に、P3536、3680、S5776、38
  9を以て校訂 Pはペリオ、Sはスタイン、以下同様) 
  6 敦煌本孝子伝乙(S389)
    5、6の「孝子伝」は共に擬題。5の舜伝の末尾には「出太史公本紀」とあるが、
   『史記』「五帝本紀」の本文とは全く別のものである。
  7 舜子変  以上、5、6、7は『敦煌変文新書』所収
  8 纂図付音増広古注千字文無刊記版
 9 新刊全相二十四孝詩選 龍谷大学蔵本
 10 日記故事大全巻一 『和刻本類書集成』3所収(昭五十二年四月 汲古書院)
 11 前後孝行録 道光元年刊本
 12 東大寺諷誦文稿 中田祝夫氏『改訂新版東大寺諷誦文稿の国語学的研究』(昭五
   十四年 風間書院)
 13 大谷大学蔵三教指帰注集巻下所収孝子伝(以下、大谷本三教指帰注) 佐藤義寛
   氏『三教指帰注集の研究』(平四年十月 大谷大学)
 14 注好選 東寺貴重資料刊行会『古代説話集 注好選 原本並釈文』(昭五十八年
   十月 東京美術)
  15 普通唱導集  村山修一氏 「翻刻『普通唱導集』」上下(『大阪女子大学国文』
   十、十一 昭三十五年一月、昭三十六年一月)
 16 五常内義抄第十九 『続群書類従』第三十二下  
 17 太平記第三十二 『新潮日本古典集成』
      太平記の本文はその殆どが「史記型構成」のため、以下の考証では特別な場合に
   限り言及している。
 18 小林本内外因縁集(以下、内外因縁集)『古典文庫』第三三七(昭五十年二月)
 19 三国伝記 池上洵一氏『三国伝記』(昭五十一〜五十七年三弥井書店)
 20 ■嚢抄巻四 『塵添■嚢抄・■嚢抄』(昭四十三年三月臨川書店)
 21 慈元抄  『群書類従』第二十七  
                                            
                    
             一


 先ず、本邦残存の二種孝子伝の本文の比較から初めてみる。上が陽明本、下が船橋本である。


┌───────────────────────────────────────
│イ 帝 舜 重 花 至 孝 也。ロ 其 父 瞽 叟 頑 愚、不 別 聖 賢。ハ 用 後 婦 之 言 而 欲 殺   
                                                                                         
│い 舜 字 重 花 至 孝 也。ろ 其 父 瞽 叟 愚 頑 不 知 凡 聖。は 爰 用 後 婦 言 欲 殺 聖 子   
├────────────────────────────────────────────┤   
│舜。ニ 便 使 上 屋 於 下 焼 之。ホ 乃 飛 下 供 養 如 故。ヘ 又 使 治 井。ト 没 井、又 欲   
                                                                                         
│舜。に 或 上 屋 聖 取 橋。ほ 舜 直 而 落 如 鳥 飛。     へ 或 使 掘 深 井 出。 と 舜 知  
├────────────────────────────────────────────┤  
│殺 舜。チ舜 乃 密 知。リ 便 作 傍 穴。       ヌ 父 畢 以 大 石 填 之。ル 舜 乃 泣   
                                                                                        
 其 心。         ち 先 掘 傍 穴 通 之 隣 家。り 父 以 大 石 填 井。  ぬ 舜 出 傍  
├────────────────────────────────────────────┤  
 東 家 井 出。ヲ 因 投 歴 山。 ワ 以 躬 耕 種 穀。 カ 天 下 大 旱 民 無 収 者。 ヨ 唯 舜 
                                                                                         
 穴。     る 入 遊 歴 山。 を 時 父 填 石 之 後、両 目 精 盲 也。わ 舜 自 耕 為 事。
├────────────────────────────────────────────┤   
│種 者 大 豊。タ 其 父 填 井 之 後 両 目 清 盲。レ 至 市 就 舜 糴 米。ソ 舜 乃 以 銭 還  
                                                                                          
│か 于 時 天 下 大 旱。よ 黎 庶 飢 饉。 た 舜 稼 独 茂。 れ 於 是 糴 米 之 者 如 市。    
├────────────────────────────────────────────┤   
│置 米 中。ツ 如 是 非 一。                                            ネ 父 疑 是 重     
                                                                                         
│そ 舜 後 母 来 買。 つ 然 而 不 知 舜。ね 々 不 取 其 直 毎 度 返 也。な 父 奇 而 所 引  
├────────────────────────────────────────────┤   
│花。   ナ 借 人 看 朽 井 子 无 所 見。ラ 後 又 糴 米。ヌ 対 在 舜 前。ウ 論 賈 未 畢。 │    
│                                                                                       │  
│後 婦、来 至 舜 所。                                                                   │  
├────────────────────────────────────────────┤ 
│ヰ 父 曰、 「 君 是 何 人 而 見 給 鄙。 将 非 我 子 重 花 耶」。 ノ 舜 曰、 「 是 也」。   │    
│                                                                                       │ 
│ら 問 曰、 「 君 降 恩 再 三。 未 知 有 故 旧 耶」。            む 舜 答 云 「 是 子 舜  │ 
├────────────────────────────────────────────┤  
│オ 即 来 父 前 相 抱 号 泣。 ク 舜 以 衣 拭 父 両 眼、即 開 明。 ヤ 所 謂 為 孝 之 至。 │  
│                                                                                       │   
│也」。 う 時 父 伏 地 流 涕 如 雨。 ゐ 高 声 悔 叫。の 旦 奇 且 耻。お 爰 舜 以 袖 拭 父│  
├────────────────────────────────────────────┤   
│                                                                                       │   
│                                                                                       │   
│涕。く 而 両 目 即 開 明 也。や 舜 起 拝 賀。ま 父 執 子 手、 千 哀 千 謝。け 孝 養 如 │    
├────────────────────────────────────────────┤   
│                     マ 尭 聞 之。ケ 妻 以 二 女。 フ 授 之 天 子。                    │   
│                                                                                       │   
│故。 ふ 終 無 変 心。 こ 天 下 聞 之、莫 不 嗟 嘆。 え 聖 徳 無 匿、遂 践 帝 位 也。    │   
├────────────────────────────────────────────┤  
│コ 故 孝 経 曰、「 事 父 母 孝。 天 地 明 察。 感 動 乾 霊 也」。                       │  
│                                                                                       │  
│                                                                                       │  
└────────────────────────────────────────────┘ 
      普通唱導集   a「別」→「列」b「言」→「意」c「使」→「便」d「乃」→「舜
    乃」e「治」→「濤カ」f「没井、又欲」→なし g 「舜乃密知。便作傍穴。」
    →「之已密知、帯銀銭五百文、作傍穴。」h「畢」→「果」 i「泣」→「縦」
        j「投」→「没」k「者」→「有」l「目」→「眼」m「置」→なし  n「非」
    →「兆」o「看」→「者」p「後」→なし q「賈」→「買」  r「而」→なし
        s「将」→「時」  t「耶」→「乎」  u「曰」→なし   v「父」→なし   w
    「故〜」→なし  以上、陽明本との対校


  陽明文庫本は室町を下らない古抄本で、村山修一氏の説では鎌倉頃の写本かという。そ
の成立に関しては、令集解所収の孝子説話と本書との関係が薄いところからして、少なく
とも原拠をなすものが中国から渡来したとすればその時期は令集解成立以降である、とす
るのが徳田進氏(1)である。一方、出典の観点(最も新しいのが梁の宋書であるとする
点)から中国の梁陳隋頃かとされるのは西野貞治氏(2)である。また、抄記された場所
に関しては、徳田氏は日本においてである可能性も十分にありうるとされるのに対して、
西野氏は中国において類書のごときものから、拾い書きしたものであろうとされた。
 本書と船橋本の関係につては、西野氏は前者の原拠孝子伝を手にした中唐俗講僧らが、
それを庶民階級の布教の具として、一層平俗なものに改編したのが船橋本であるかと仮定
されている。対して今野達氏(3)は二つの説を立てられ、いずれか一方が先出し、他が
それにある程度手を加えた後出の新編本であるか、または別の一本を共通母胎として、陽
明本船橋本両本がそれぞれにその母胎に若干手を加えて新編されたものかのいずれかであ
ろうと結論付けられた。
 舜孝子説話の両者の本文を具に比較してみると、同一系統に属する可能性が高いと判断
されるものの、いくつかの違いが存する。
  1 船橋本が舜を聖子または聖と呼んでいる部分(は、に)がある。
  2 屋根の修理を命じる件で、陽明本が下から火を放つ(ニ)のに対して、船橋本は
   梯子をはずしている(に)。
  3 井戸浚いの件で、陽明本が「東家」の井戸(ル)というところを、船橋本は「隣
   家」(ち)とする。
 (ワ)(を)以下、叙述の順番が異なるが、特に市で再会する件で、 
    4 陽明本でははっきりとした記述がないが、初めから父が直接舜から米を買ってい
   ると読める。対して、船橋本では先ず後母のみが直接舜から買っている。
  5 陽明本では舜が密かに米中にお金を返すのに対して、船橋本は初めからお金を受
   け取らない。
    6 陽明本では父がこの米を商うものが舜ではないかと疑い、人を雇って埋めたはず
   の井戸に確認に行かせている。
    船橋本ではお金を受け取らないのを不審に思った父は、後母に手を引かせて市に
   行き、そこで初めて舜に対するが、まだ相手が誰であるか想像もついていない。
  7 舜が父の涙を拭ってやると、その目が見えるようになったという記述は、船橋本
   の方がより詳しい描写となっている。
  8 陽明本では以上の話を聞いた尭が自分の娘二人を舜に娶せ、天子を授けるている。
   船橋本では舜がその後帝位についた事のみを述べる。
  9 陽明本では、最後に古文孝経感応章第十七(今文第十六)の一節を引く。

  次に、話の順を追って他の文献と二種孝子伝を比較することにする。
 
(イ〜ハ)(い〜は)
 青木正児氏によれば(4)、そもそも夏開国説話の根幹をなす禹治水伝説が先に存在し、
その後儒家たちがその話の前に据えたのが尭舜説話だという。そして舜伝は、主にその話
中の地名から推察するに、斉・魯(山東省)あたりの民間伝承に発するものであろうとさ
れた。
  さて、その後広く行われた舜孝子説話の源流を文献に求めると『尚書』尭典、『孟子』
万章上、『史記』五帝本紀の三種が存在するが、いずれにも父瞽叟、後母の他に弟象の名
が上げられている。
 ・瞽子、父頑母▲ 弟傲。克諧以孝、烝烝乂不格姦。
                                                (『尚書』堯典)
  ・象曰「(中略)(筆者注=舜の)二嫂使治朕棲。」象往入 舜宮、舜在床琴。
                               (『孟子』万章上)
  ・舜父瞽叟盲。而舜母没、瞽叟更娶妻、而生象。象傲。瞽叟 愛後母子。常欲殺舜。
                              (『史記』五帝本紀)
 纂図附音千字文、■嚢抄他孝子伝類でも敦煌孝子伝甲本、舜子変、大谷本三教指帰注な
どにも象の名は見受けられ(5)、この点で陽明本、船橋本は特異である。しかし、父の
悪意を強調し、象にも重要な地位を与えようとする(尭より与えられた舜の二婦などを我
がものにしようとするなど)『史記』と好対照に、ことさら後母の舜に対する殺意を前面
に出そうとする上記孝子伝類の方向性から推して考えてみれば、象の不在はそれほど影響
はないものと言えよう。敦煌孝子伝乙他、孝子伝類の流れを汲むと思われる注好撰「舜父
盲明第四十六」、五常内義抄第十九、三国伝記巻七「第五虞舜即位事」にも、象は登場し
ない。
  増田欣氏は舜孝子説話を「史記型構成」と、「孝子伝型構成」の二種に大別される(6)
が、二種をそれぞれに特徴付ける重要な要素の一つに、以上の点が上げられる。すなわち、
いわゆる「継子いじめ」が「孝子伝型」なのである。

(ニ〜ホ)(に〜ほ)
 舜に倉庫の修理を命じる件であるが、陽明本の様に下から火を放ち、焼死させようとす
るものには、敦煌孝子伝甲本、舜子変、纂図附音千字文、大谷本三教指帰注、五常内義抄
第十九、■嚢抄(母放火)、慈元抄が上げられる。船橋本は梯子を外し、墜落死させよう
とするが、源流に遡れば前者は『史記』「五帝本紀」、後者は『孟子』万章上の流れを汲
むものと言えよう。『史記』ではその時、舜は二本の傘を用いて飛び降りるが、その話を
継ぐものとしては、敦煌孝子伝甲本、舜子変、大谷本三教指帰注、■嚢抄が上げられ、纂
図附音千字文とその邦訳とも言うべき慈元抄のみは二本の傘が「筵」となっている。

(へ〜ル)(ヘ〜ぬ)
  陽明本に限りなく近い普通唱導集に「帯銀銭五百文」とあるのが目を引くが、増田氏は
「前後の文脈から完全に遊離しているこの六字は、(中略)他の何物かから持ち込んだも
のであることは明白である。」とする(注6論文)。大谷本三教指帰注には
    舜帯銀銭五百文、入井中穿泥。取銭上之、父母共拾之。舜 於井底鑿匿孔。遂通東家
井。便仰克父母云「井底銭已尽。願 得出。」爰父下土填井。以一盤石覆之。駆牛践平之。
舜縦東 井出。
  と見え、少なくともこの話が平安末の我が国に伝わっていたことは確実である。一方、
中国に眼を転じてみると、敦煌本乙では本文中に「孝感於天、K東家井出」とあり、末尾
の絶句中に「孝順父母感于天 舜子濤井得銀銭 父母抛石圧舜子 感得穿井東家連」とあ
る。敦煌本甲の該当部分は長文であるため、増田氏の抄出要約を利用させていただく(注
6論文)。
    天は舜の孝心に感応して、井戸の中に銀鈔(銭 カ)を降らせた。舜はそれを見て、
  父に「泥の中に銀銭が混じっている。お取りになるがよい」と告げた。父母は銀銭を
  見て、われがちに取りあいをした。そんなことをくり返しているうちに、銀銭も尽き
  てしまった。と、舜はその傍に身を入れるに足る龕のあるのに気づいた。舜が「泥も
  すっかり無くなったから、私を引き上げておくれ」と父に言うと、父母は大石や土を
  投げ込み、その上を牛に踏み固めさせて、井戸を埋めてしまった。
  大谷本三教指帰注では舜個人の機転とするが、敦煌本では甲乙両者共に舜の孝行に天が
感応した結果とする。本文中の語句からすると、敦煌本甲に「与大石鎮之、将土填塞、駆
牛而践」と見えるなど、大谷本三教指帰注と近似の内容を含み、この三者が元は同一の本
文系統から派生したことを思わせる。一方、舜子変は金岡照光氏の纏められた梗概(7)
を参考にして記せば、
    帝釈が天からひそかに降らした銀銭五百文を手に入れた舜は、それを泥樽の中に
   入れて、継母に引き上げさせる。継母は、舜に銀銭を横取りしたと訴えられては大
   変と、父をそそのかして舜を生き埋めにしてしまおうとする。そこで、帝釈は黄竜
   と化して、舜を井戸の底の横穴から、東隣の家の井戸へ導く。舜は危うく生命を全
   うして、東の家の井戸に水を汲 みにきた老婆によって助け出される。
  とあり、「帝釈」によって舜は救われる。我が国の■嚢抄(前半三分の二)及び太平記
巻三十二はいわゆる「史記型構成」に則って記されているが、その中に「銀銭五百文」と
思われる話を載せている。
  堅牢地神高孝心ヲ哀レミ給ヒケルニヤ。井ヨリ挙ケル土ノ 中ニ金ヲ度々交ケル。  
                               (以下、略 ■嚢抄)   
  堅牢地神モ孝行ノ子ヲ哀ニヤ覚シケン、井ノ底ヨリ上ケル 土ノ中ニ半バ金ゾ交リタ
  リケル。                                          (以下、略 太平記)
  ここでは両者共に、欲心に万事を忘れるのが父と弟の象となっており、「史記型」にや
や引きずられた内容になっているが、孝行の者を守るという仏教の女神堅牢地神が登場す
るあたり、舜子変に通じる信仰心が現れている。
  また、纂図附音千字文(当然その邦訳慈元抄も)では、隣家の親友が父母の舜殺害の意
志を察して舜に五百文を与えたとする所、他と一線を画する。この点、早川光三郎氏は「天
と友との字形近似から誤記誤伝されたものか」(8)と想像される。
  さて、陽明本に「東家」の井戸から脱出するという件は、多くの本がそうなっているが、
史記では「舜縦匿空出去」となっている。五常内義抄に「重花カクレ穴ヨリ出テ、他国に
往」、三国伝記に「傍ニ大ナル穴ヲホリテ出遁レ助カリケリ」とあり、船橋本も含めてこ
れら三者はこの部分に限っては史記系統に属するものと考えられる。また、太平記と同様
に前半三分二が「史記型構成」である■嚢抄は当然のごとく「匿穴」である。

(ヲ〜ヨ)(る、わ〜た)
  歴山耕作の件であるが、父が罪から盲目となったという説明が船橋本では前にきている
点が違うのみである。陽明本と同じ順序なのは敦煌本孝子伝甲、舜子変、五常内義抄、三
国伝記。船橋本と同じなのは纂図附音千字文、注好選である。歴山滞在期間を十年とする
のが敦煌本孝子伝乙、舜子変、大谷本三教指帰注(十余年)、注好選であり、広く行われ
ていたことを知る。五常内義抄に「天下九年マデ洪水シキリニシテ」、三国伝記に「九年
ノ蓄ヘ寛也」とあるのは、増田氏によれば、「国無九歳之儲、不足備水旱」(『帝範』務農
第十)、「昔堯遭九年之水」(『明文抄』所引『後京雑記』)といった知識の混入であろうと
される(注6論文)。
  他に、東大寺諷誦文稿八十九行に「重華担盲父、而耕歴山、而作養盲父」とあるのは、
孝子伝型とは明らかに別の伝承に基づくものと考えられる。父を携えて歴山に耕作すると
いうのは史記か、あるいは歴山耕作を主なプロットにする二十四孝系の話に共通する所伝
によるのであろうか。

(タ)(を)
  父が盲目になるだけでなく、母も愚かになり(あるいは母は耳がきこえなくなり)、弟
も口がきけなくなったとするのが、敦煌本孝子伝甲、舜子変、大谷本三教指帰注であり、
纂図附音千字文では更に家まで焼失したという。母は耳が聞こえなくなったとする点では
大谷本三教指帰注と纂図附音千字文が共通する。注好選では弟のことがないが、これは象
そのものが登場しないのであるから当然のことである。本邦残存二種古孝子伝同様、父だ
けに厄が及んだとするのは五常内義抄と三国伝記。
 敦煌本乙は舜殺害未遂の廉で父が盲目になるという件を欠くが、これは孝子伝類の中で
も極めて特異で、この部分に限っては史記型に近い。

(レ〜ヤ)(れ〜こ)                           
  舜が米を商う話は、尚書、孟子、史記には見えず、孝子伝類と■嚢抄がこれを伝える。
因みに、■嚢抄が後半三分の一に「孔子曰〜」として引くこの話は、あるいは「孝子伝曰
〜」を誤ったものではなかろうか。以下の考証の結果を■嚢抄に限って先に記すならば、
もしこれが「孝子伝曰〜」とした場合、現存する本文の中では陽明本に最も近いと言える。
 さて、敦煌本乙では米が高騰していると聞いて、故郷の冀州へ行く。舜子変では、歴山
で財を蓄えた舜は、父母の恩に報いようとして故郷の冀州へ赴くその途中で、里人から父
母弟の状況を聞いている。要するに舜は父母に再会できることを、あらかじめ確信してい
るのである。五常内義抄と三国伝記はもしかしたら父に会えるのではないかと期待して市
へ赴く、としている。他の孝子伝類では単に市で米を商うとあるところからして、以上の
話はそれぞれに発展したバリエ−ションを示すものであろう。また、纂図附音千字文では
二百石を収穫し、姓名を易えた後市へ赴いている。わざわざ姓名を易えるというのはこの
一種のみであるが、これは五常内義抄に、父を目撃しても「殺レタル身ナリト恐ヲナシテ
云出サズ」とあることと関連した記述であろう。すなわち、自分は井戸で死んだことにし
ておくためと考えられる。
  舜と再会するのが先ず継母であるとするのは船橋本の他に敦煌本孝子伝甲乙、舜子変、
纂図附音千字文、大谷本三教指帰注、注好選。更に、継母はそこで薪を商っていたとする
のが敦煌本甲、纂図附音千字文、大谷本三教指帰注である。すぐに父と再会するとする陽
明本系統には五常内義抄、三国伝記、■嚢抄が上げられ、更に、■嚢抄では父はそこで薪
を商っていたとする。継母から話を聞いた父が、それは舜ではないかと疑い、人を頼んで
井戸を確認に行かせるものには陽明本を含めて三種あるが、五常内義抄では抜け穴を発見
したとし、三国伝記では父は自分と同じ風体の乞食に頼んだと記述する。この点は敦煌本
甲乙、舜子変、纂図附音千字文といった中国残存の書々に見られない点注目される。   
 陽明本の様に米中に銭を入れて返したとするのは劉向孝子伝、敦煌本孝子伝乙、纂図附
音千字文、大谷本三教指帰注、五常内義抄、三国伝記、■嚢抄が上げられるが、纂図附音
千字文では更に母の商う薪に二倍の銭をとらせ、餅と肉も与えるという、かなりの潤色が
加わっている。船橋本の様に銭を受け取らなかったとするのは敦煌本孝子伝甲、注好選で
ある。
  継母からの報告をうけて父がそれは舜ではないかと疑うという二人の会話の部分(父「そ
れは舜ではないか」継母「百丈の底に大きな石を上に乗せて埋めたのです。どうして生き
ているはずがありましょうか」)は、敦煌本甲と舜子変、纂図附音千字文、大谷本三教指
帰注ではほとんど同文で、この点では一つの系統として括ることができる。また、この後
継母に手を引かせて舜の所に行き、舜ではないかと訪ねた時の声を聞いて確信を持つとい
った件は、この三種に敦煌本乙を加えてかなり近い本文を共有する。      
 陽明本では父が「舜ではないか」と尋ねるのに対して、船橋本では父は相手が誰である
のかわかっていない。共に共通するのはその声から舜だと判断したという記述はないとい
うことである。五常内義抄はこの部分に限って船橋本に近い。注好選では確認の会話はな
く、父の老いた姿を見て泣く舜を、父が手で探る。三国伝記では「舜ではないか」という
父の声を聞いて初めて、舜は相手が父であると確信し、「そうだ」と答えている。これは
少し前に「我ガ父ニ少シ似タル盲目ノ老翁」を見かけたとあり、更にその前に「両眼忽ニ
盲テ、五体弥衰老セリ」とある所から、理屈は通る。■嚢抄では不審に思った父が自分の
これまでの過ちを述べると舜が抱きついてきたとする。
  父の眼を舜が拭う事によって、その目が見えるようになるという件は陽明本、船橋本、
三国伝記、■嚢抄とも共通であるが、敦煌本孝子伝甲、纂図附音千字文、大谷本三教指帰
注では母弟の厄も除かれたとする。象が登場しない注好選では、父の他に口が利けなくな
っていた母も治ったとする。父の目を舐めて治したとする敦煌本孝子伝、舜子変はこの点
特異であり、金岡氏は「敦煌本における創作であろうか。しばらく待考としなければなら
ない」とされたが、劉向孝子伝に「舐之目霍然開」とある所から、比較的古い時代から確
かにあった伝承と言えよう。一方、この場面で天神の感応を強調するのが五常内義抄と三
国伝記であり、更に五常内義抄は舜が父の目を拭ってやるという要素は欠落している。こ
の点、内外因縁集「舜王至孝」が五常内義抄と近似する部分を持つ。                
  重華、天衆地類、願哀愍ヲ垂テ父ノ眼ヲ本ノ如ク開給ヘトゾサケビケル、孝ノ心誠
 ニアリケルニヤ、二ノ眼忽ニ開テ、 二度ビ父子相見ル事ヲエタリ   (五常内義抄)
    舜王行幸父家。父盲不能拝面。舜仰天愁時、爰目忽開、奉 見龍顔。親子心無喩也。
                          (内外因縁集「舜王至孝」全文)
  船橋本の方が陽明本より詳しい描写となっている部分(や〜ふ)に関しては、他に類例
を見い出し難い。
                        
(マ〜フ)(え) 
  舜の至孝を聞いた堯が、自分の娘二人を舜に娶せたとするものは、陽明本の他敦煌本孝
子伝甲、舜子変、五常内義抄、三国伝記であるが、敦煌本孝子伝甲、舜子変は「娥皇」「女
英」とその名を上げ、息子の「商均」が不肖であったことから禅譲に至るまで話が及ぶ(史
記及び史記型の 嚢抄、太平記には娘二人の名が見える)。一方、帝位に付いたことのみ
を記すのは船橋本だけである。                                                    
      
(コ)                      
  話末に賛や教典よりの引証本文が多く付されることが陽明本の一つの特徴であるが、船
橋本にはそれらが全くない。


                    二
 
  以上、比較検討を行ってきたが、所々孟子、史記の影響を残しながら、纂図附音千字文
や孝子伝類同士影響しあい、相当に複雑な過程を経て変遷してきたことを思わせる。そん
な中、大谷本三教指帰注の存在は重要で、敦煌本擬題孝子伝甲乙にかなり近似の「孝子伝
ー舜」が嘗て中国に確かに存在し、それが日本に入ってきたものが大谷本三教指帰注「孝
子伝ー舜」であると考えられる。 
 また、我が国に限定して考えて見るならば、大まかに次の図の様なことが言えようか。

 五常内義抄と三国伝記が、共に陽明本系統の説話を引きながら、それぞれ口承的な展開
を遂げた結果であるとするのは、既に増田氏のご指摘の通りである。一方、注好選は船橋
本系統と大谷本三教指帰注系統の中間に位置するものと言えよう。


 (1) 『孝子説話の研究ー二十四孝を中心にー』井上書房昭三十八年三月
 (2) 「陽明本孝子伝の性格並に清家本との関係について」(『大阪市立大学人文研
    究』七ー六 昭三十一七月)
 (3) 「古代中世文学の形成に参与した古孝子伝二種についてー今昔物語集以下諸書
    所収の中国孝養説話典拠考ー」『国語国文』二八七号 昭三十三年七月)
 (4) 「堯舜伝説の構成」(『支那文学芸術考』所収 弘文堂書店 昭十七年七月)
 (5) 『増訂漢魏叢書』所収『陶潜孝伝』の「虞舜」にも、弟象の名が見えるが、本
    伝の記事はほとんど『孟子』万章上の本文を利用したものである。また、本書の
    真贋にも疑問の残るところから、以下、考証の対象からは外すこととする。
 (6) 「虞舜至孝説話の伝承」(「『太平記』の比較文学的研究」所収 昭五十一年六
     月)。
     増田氏は『史記』「五帝本紀」の記述を、次の十項目に整理されている。

     @ 舜の父の瞽叟は後妻をめとり、象を生んだのち、舜を殺そうとしたが、舜
      はよく親に仕えた。
     A 舜は歴山に耕し富沢で漁をし河浜で陶器を作った。父母や弟は舜を殺そう
      としたが、舜は親に従順で弟を愛したので殺せなかった。
     B 舜は二十歳で孝行者として知られ、三十歳の時には政治を任せるに足る人
      物として推された。
     C 尭は二女を舜にめあわせ、また九人の子を舜とともに生活させて、舜の人
      物を見させた。二女は婦道を守り、九人の子も篤実になった。
     D 舜が歴山で耕したり富沢で漁をしたり河浜で陶器を作ったりしたとき、周
      囲の者を感化し、彼のいるところは一年で村となり二年で邑となり三年で都
      となった。
     E 尭は舜に 衣(細い葛布の衣)と琴を与え、倉を立ててやり、牛と羊を与
      えた。
     F 瞽叟は舜を倉の屋根に上げて壁を塗らせ、下から火を付けた。舜はひろげ
      た笠を両手に持って無事に飛び降りた。
     G 瞽叟はまた舜に井戸を掘らせて埋め殺そうとした。舜は匿し穴を掘って逃
      れ出た。
     H 父母と象は舜の財産を分配した。二女と琴を手に入れた象が舜の家で琴を
      引いているところへ舜が戻ってきた。             
     I 舜はいよいよ父母に仕え弟を愛した。尭は舜の為政者としての才能をいろ
      いろと試したうえで、摂政に任じた。
     
      尚、本拙稿は増田氏の論に多大の学恩を賜っている。
 (7) 孝行譚ー「舜子変」と「董永伝」ー(『講座敦煌』9 敦煌の文学文献所収 
    平二年四月 大東出版)
 (8) 「変文に繋がる日本所伝中国説話」(『東京支那学報』六 昭三十五年六月)

       詳細な舜孝子説話対照表(中国)・(日本)は、現在のところやむなく省略

(付) 本稿は、北海道説話文学研究会で行っている月例輪読会(現在は「陽明文庫本孝
   子伝」)の発表をもとに成稿したものであります。
        北海道説話文学研究会は、主に道内在住の研究者で組織されています。月例輪読
   会(於札大)は「説話」に限っていますが、年一度の「大会」では国語国文全般(一
   部国語教育、歴史学も含む)にわたって研究発表がなされています。興味のおあり
   の方は、私宛にご連絡ください。学生さんや高校教諭も気軽に聴講に来ています。


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漢文2科目「古典」長恨歌の比較文学的取り扱い

     『平成9年度 研究集録』(札幌市教育委員会 平成10年3月)に掲載したのを、一部
転載したものです(もと縦書き 一部改)。授業をする上でのノートみたいなもので、新見解があるわけではありません。

 
漢文1 舜孝子説話をめぐって


現代日本の高校生にとっては冗漫とも感じられる教材「長恨歌」を扱う際、さまざまな 工夫が必要となるであろうが、本資料もそういった試みの一つである。但し、少なくとも 国語Tは修得し終えている生徒でなければ、苦しいだろう。 漢皇色を重んじて傾国を思ふ  御宇多年求むれども得ず ・『源氏物語』紅葉賀 一三 源氏、老女源典侍とたわむれる     みかどの御年ねびさせ給ひぬれど、かうやうの方、え過ぐさせ給はず、 采女、女蔵人などをも、かたち心あるをば、ことにもてはやしおぼしめしたれば、    よしある宮仕人多かる比なり。  楊家に女有り初めて長成す  養はれて深閨に在り人未だ識らず ・『源氏物語』常夏 二 源氏、西の対で和琴を弾き玉鬘と唱和     なほなほしき際をだに、窓の内なるほどは、ほどに従ひて、ゆかしく思ふべかめ    るわざなれば、 ・『源氏物語』若菜上      深き窓のうちに、何ばかりの事につけてか、かく深き心ありけりとだに知らせた てまつるべき、 ・『源氏物語』若菜下     高きまじらひにつけても、心乱れ、人に争ふ思ひの絶えぬもやすげなきを、親の 窓の内ながら過ぐしたまへるやうなる、心やすきことは    なし。       注 「深閨」は、我が国金沢文庫本など古い本文では「深窓」に作る。  眸を廻して一笑すれば百眉生じ  六宮の粉黛顔色無し   ・『平家物語』第二 烽火の沙汰 上101    周幽王褒云最愛の后を持ち給へり。天下第一の美人也。されども幽王の心にかな    はざりける事には、褒咲を含まずとて、すべて此后わらう事をし給はず(中略)    或時天下に兵乱おこッて烽火を揚げたりければ、后これを見給ひて、「あなふしぎ、    火もあれ程おほかりけるな」とて、其時初めてわらひ給へり。この后、一たびゑめ    ば百の媚ありけり。幽王うれしき事にして、其事となう、常に烽火を揚げ給ふ。  ・『平家物語』第三 赦文 上137  かかりし程に、中宮は月の重なるに随て、御身をくるしうさせ給ふ。一たびゑめ    ば百の媚ありけん。   侍児扶け起せば嬌として力無し  始めて是れ新に恩沢を承くるの時   ・『源氏物語』松風 一〇 源氏、大を去る     なかなかもの思ひ乱れて臥したれば、とみにしも動かれず。あまり上衆めかしと    思したり。人々もかたはらいたがれば、しぶしぶにゐざり出でて、几帳にはた隠れ    たるかたはら目、いみじうなまめいてよしあり、たをやぎたるけはひ、皇女たちと    言はむにも足りぬべし。 ・『源氏物語』若菜上 ただ聞こえ給ふままに、なよなよとなびき給ひて、御いらへなどをも、おぼえ給    ひけることは、いはけなくうちのたまひ出でて、え見放たず見え給ふ。 ・『源氏物語』東屋     かれ(大君)は限りなくあてにけ高きものから、なつかしうなよよかに、かたは    なるまでなよなよとたわみたるさまのし給へりしにこそ、  春宵短きに苦んで日高くして起き  此れより君王早に朝せず  歓を承け宴に侍して閑暇無く  春は春遊に従ひ夜は夜を専らにす ・『源氏物語』桐壺 九 命婦帰参、さらに帝の哀傷深まる     さるべき御遊びのをりをりなにごとにもゆゑあることのふしぶしには、まづまう    のぼらせ給ふ、ある時にはおほとのごもりすぐしてやがてさぶらはせ給ひなどあな    がちにおまへさらず、もてなさせ給ひし程に(以下、略) ・『源氏物語』初音 三 源氏、玉鬘を訪れ、明石の御方に泊る     ことなる御答へもなければ、わづらはしくて、空寝をしつつ、日高く大殿籠り起    きたり。 ・『源氏物語』若菜下     院は、対へ渡り給ひぬ。上は、とまり給ひて、宮にも御もの語りなど聞こえたま    ひて、あかつきにぞ渡り給へる。日高うなるまで大殿籠れり。 ・『源氏物語』東屋     宮、日たけて起き給ひて、「后の宮、例のなやましくし給へば、まゐるべし」と    て、   ・『源氏物語』同     明るも知らず大殿籠りたるに、人びとあまたまゐり給へば、寝殿に渡り給ひぬ。   ・『平家物語』灌頂の巻 女院出家 下390     女院は、十五にて女御の宣旨をくだされ、十六にて后妃の位に備はり、君王の傍    に候はせ給ひて、朝には朝政をすすめ、よるは夜を専にしたまへり。   後宮の佳麗三千人  三千の寵愛一身に在り   ・『大鏡』 太政大臣道長     大臣の御むすめ三人、后にてさしならべ奉り給ふこと、あさましくけうのことな    り。もろこしには、むかし三千人の后おはしけれども、そらはすぢもたづねでただ    かたちありてきこゆるを、となりの国まで選び出して、その中に楊貴妃ごときは、    あまりときめきすぎて、かなしきことあり。 姉妹弟兄皆土を列し  憐む可し光彩門戸に生じ  遂に天下の父母の心をして  男を生むを重んぜずして女を生むを重んぜしむ   ・『源氏物語』若菜下     (源氏、住吉大社に参詣)世の中の人、これをためしにして、心たかくなりぬべ    きころなめり。      行宮月を見る傷心の色  夜雨鈴を聞く腸断の声 注『和漢朗詠集』巻下 恋 779   ・『今鏡』すべらきの上、星合ひ     長暦三年八月十九日、なほ女みこ生み奉り給ひて、同じき二十八日失せ給ひにき。    御齢二十四。あさましく哀れなる事限りなし。いとど秋の哀れそひて、有明の月の    影も心を傷ましむる色、夕の露のしげきも涙を催すつまなるべし。 太液の芙蓉未央の柳  芙蓉は面の如く柳は眉の如し 此れに対して如何ぞ涙垂れざらん ・『源氏物語』桐壺 九 命婦帰参、さらに帝の哀傷深まる ゑにかける楊貴妃のかたちは、いみじきゑしといへども、筆にかぎりありければ、    いとにほひなし。太液の芙蓉、未央の柳も、げにかよひたりしかたちを、からめい    たるよそひはうるはしうこそありけめ   ・『平家物語』第三 赦文 上138     芙蓉の風にしほれ、女郎花の露おもげなるよりも、猶いたはしき御さまなり。 ・『平家物語』第六 祇園女御 上360 故建春門院の御方を御らんずれば、岸の松、汀の柳年へにけりとおぼえて、木だ    かくなれるにつけても、太液の芙蓉、未央の柳、これに向ふにいかんがなんだすす    まざらん。 春風桃李花開くの夜  秋雨梧桐葉落つるの時    注『和漢朗詠集』巻下 恋 780 西宮南苑秋草多く  宮葉階に満ちて紅掃はず   ・『平家物語』第六 祇園女御 上361     彼南内西宮のむかしの跡、今こそおぼしめし知られけれ。  夕殿蛍飛んで思悄然  孤灯挑げ尽して未だ眠をなさず 注『和漢朗詠集』巻下 恋 781 遅々たる鐘鼓初めて長き夜  耿耿たる星河曙けんと欲する天 注『和漢朗詠集』巻上 秋夜 234 ・『源氏物語』桐壺 九 命婦帰参、さらに帝の哀傷深まる     灯火を挑げ尽くして起きおはします。右近の司の宿直奏の声聞こゆるは、丑にな    りぬるなるべし。人目を思して夜の御殿に入らせたまひても、まどろませたまふこ    とかたし。 ・『源氏物語』幻  蛍のいと多う飛びかふも、「夕殿に蛍飛むで」と例のふるごとも、かかる筋にの    み口馴れ給へり。 ・『十訓抄』第一 可定心操振舞事 また次なる人、夕殿に蛍とびてとうちながむ。しりなる人、かくれぬものはなつ    むしのと花やかにひとりごちたりけり。 鴛鴦の瓦は冷にして霜華重く  翡翠の衾は寒くして誰と与共にかせん   ・『源氏物語』葵 二四 源氏去って左大臣家の寂寥さらに深まる     他人に見たてまつりなさむが惜しきなるべし。「旧き枕故き衾、誰と共にか」と    ある所に、 ・『源氏物語』幻     まだ夜深う一所起き給ひて、妻戸押しあけたまへるに、前栽の露いとしげく、渡    殿の戸よりとほりて見わたさるれば、 注 「翡翠衾寒」は、我が国金沢文庫本など古い本文では「旧枕故衾」に作る。 悠々たる生死別れて年を経たり  魂魄曽て来りて夢に入らず   ・『源氏物語』総角     「亡せ給ひてのち、いかで夢にも見たてまつらむと思ふを、さらにこそ見たてま    つらね」とて、二所ながら、いみじく泣き給ふ。 臨 の道士鴻都の客  能く精誠を以て魂魄を致す  君王展転の思に感ずるが為に  遂に方士をして慇懃に覓めしむ(中略) 唯旧物を将て深情を表し  鈿合金釵寄せ将ち去らしむ   ・『源氏物語』桐壺 九 命婦帰参、さらに帝の哀傷深まる     亡き人の住み処尋ね出でたりけむしるしの釵ならましかばと、思ほすもいとかひ    なし。 たづねゆくまぼろしもがなつてにても魂のありかをそこと知るべく ・『源氏物語』幻     大空をかよふまぼろし夢にだに みえこぬたまのゆくへたづねよ  忽ち聞く海上仙山有り  山は虚無縹渺の間に在りと(中略) 昭陽殿裡恩愛絶え  蓬莱宮中日月長し ・『源氏物語』朝顔 一〇 亡き藤壺の宮、源氏の夢枕に立って恨む     ものの心を深く思したどるに、いみじく悲しければ、何わざをして、知る人なき    世界におはすらむを、とぶらひきこえに参でて、罪にもかはりきこえばや、などつ    くづくと思す。 ・『源氏物語』宿木     世の海中にも、魂のありか尋ねには、心のかぎり進みぬべきを、いとさまで思ふ    べきにはあらざなれど 玉容寂寞涙欄干  梨花一枝春雨を帯ぶ   ・『枕草子』木の花は 梨の花、世にすさまじく、あやしき物にして、目にちかくはかなき文つけなどだ    にせず。(中略)もろこしに限りなきものにて、ふみにも作るなるを、さりともあ    るようあらむとて、せめて見れば、花びらのはしに、をかしき匂いこそ心もとなく    つきためれ。楊貴妃みかどの使にあひて、泣きける顔に似せて、梨花一枝春の雨を    帯びたりなどいひたるは、おぼろげならじと思ふに、なほいみじうめでたきことは    たぐひあらじと覚えたり。 ・『平家物語』第三 赦文 上138 一たびゑめば百の媚ありけん漢の李夫人の、照陽殿の病のゆかもかくやとおぼえ、    唐の楊貴妃、李花一枝春の雨をおび、  釵は一股を留め合は一扇  釵は黄金を擘き合は鈿を分つ ・『源氏物語』絵合 七 朱雀院、秘蔵の絵巻を斎宮の女御に贈る     聞こえたまはざらむもいとかたじけなければ、苦しう思しながら、昔の御髪ざし    の端をいささか折りて、  七月七日長生殿  夜半人無く私語の時 天に在りては願はくは比翼の鳥と作り  地に在りては願はくは連理の枝と為らん ・『源氏物語』桐壺 九 命婦帰参、さらに帝の哀傷深まる     朝夕のことぐさに羽をならべ枝をかはさむと、ちぎらせ給ひしに、かなはざりけ    る命のほどぞつきせずうらめしき。 ・『源氏物語』夕顔 一〇 源氏、中秋の夜、夕顔の家に宿る     長生殿の古き例はゆゆしくて、翼をかはさむとはひきかえて、弥勒の世をかねた    まふ。   ・『更級日記』     世の中に長恨歌といふ文を物語にかきてある所あなりと聞くに、いみじうゆかし    けれどえ云ひよらぬにさるべきたよりをたづねて、七月七日にいひやりける。     ちぎりけむ昔の今日のゆかしさに天の川なみうちいづるかな    返し、     たちいづる天の川べのゆかしさにつねはゆゆしきこともわすれぬ  ・『平家物語』第六 小督 上338     漢河の星をさして、御契あさからざりし建春門院、秋の霧におかされて、朝の露    と消えさせ給ひぬ。 ・『平家物語』第十 維盛入水の事 下239     生者必滅、会者定離は浮世の習にて候也。すゑの露、もとのしづくのためしあ    れば、たとひ遅速の不同はありとも、をくれ先立つ御別、遂になくしてもや候べき。    彼離山宮の秋の夕の契も、遂には心を摧くはしとなり、甘泉殿の生前の恩もおはり    なきにしもあらず。 天に在りては願はくは比翼の鳥と作り  地に在りては願はくは連理の枝と為らん ・『拾遺和歌集』雑上       中宮長恨歌の御屏風に 伊 勢     木にもおひずはねもならべで何しかもなみぢへだてて君をきくらむ   ・『源氏物語』柏木     柏木とかへでとの、ものよりけに若やかなる色して枝さしかはしたるを、「いか    なる契りにか、末あへる頼もしさよ」などのたまひて、しのびやかにさし寄りて、     ことならばならしの枝にならさなむ葉守の神のゆるしありきと ・『源氏物語』横笛     月さし出でて曇りなき空に、翼うちかはす雁も列を離れぬ、うらやましく聞き給    ふらんかし。 ・『平家物語』第六 小督 上338     法皇はうちつづき御歎きのみぞしげかりける。去る永万には、第一の御子二条院    崩御なりぬ。安元二年の七月には、御孫六条院かくれさせ給ひぬ。天に住まば比翼    の鳥、地に住まば連枝の枝とならむと(以下、略) ・『奥の細道』     それより野田の玉川沖の石を尋ぬ。末の松山は寺を造りて末松山といふ。松のあ    ひあひ皆墓はらにて羽をかはし枝を連ぬる契の末も、終は斯の如きと悲しさもまさ    りて塩釜の浦に入相の鐘を聞く。   ・『蕪村遺稿』    天にあらば比翼の籠や竹婦人 天長く地久しきも時有りてか尽く  此の恨綿綿として尽くる期無からん ・『十訓抄』第九 可停懇望事     後江相公の澄明におくれて後世を訪はれける願文に(中略)しかのみならず、唐    帝の楊貴妃に別れし恨は長恨歌といふ文名におひて聞ゆ。漢皇の李夫人に後れし恨    はいかばかりなりけん。骨は化して塵となるとも、この恨ながく消ゆる期なからん    と、楽府にかかれる、いと罪ふかくこそ聞ゆれ。 その他 ・『源氏物語』桐壺 唐土にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れあしかりけれと、やうやう、天の    下にも、あぢきなう人のもてなやみぐさになりて、楊貴妃の例もひき出でつべくな    りゆくに、 ・『源氏物語』桐壺     このごろ、明け暮れ御覧ずる長恨歌の御絵、亭子院のの描かせたまひて、伊勢、    貫之に詠ませたまへる、大和言の葉をも、唐土の詩をも、ただその筋をぞ枕言にせ    させたまふ。 日本人として白居易の「長恨歌」を読む場合、我が国の文学に与えた影響を無視するわ けにはいかないだろう。殊に、一九八三年和漢比較文学会が発足して以降、「日本古典文 学と漢語文化圏の文学および文化との比較研究」の進展には、めざましいものがある。こ れら先端の研究成果を、授業の中に取り入れたいと考え、作っているのが上である。作品 は生徒になじみのあるものに限って上げてある。これらの中から、その時の生徒の実態に 合わせて、いくつかを扱うようにしている。   「長恨歌」の書き下し文は近藤春雄氏の『白氏文集と国文学 新楽府・秦中吟の研究』 を利用させていただいた。 『源氏物語』の本文は新編日本古典文学全集(小学館)、『平家物語』は新日本古典文 学大系(岩波書店)をそれぞれ利用した。  参考文献   『漢詩文引用より見た 源氏物語の研究』古沢未知男(一九六四桜風社) 『源氏物語と白氏文集』丸山キヨ子(一九六四年 東京女子大学学会) 『白楽天と日本文学 復刻版』水野平次(一九八二年 大学堂書店) 日本古典集成『和漢朗詠集』(一九八三年 新潮社) 『白氏文集と国文学 新楽府・秦中吟の研究』近藤春雄(一九九〇年 明治書院) 『白居易研究講座』第三・四 日本における受容(韻文篇・散文篇)(一九九三年    勉誠社)   『源氏物語と白楽天』中西進(一九九七年 岩波書店)


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